羊のいない月曜日

もし一般論の国というものがあったら

問診票みたいなもの

 

3年ぶりに活字が読めるようになった。

理由はよくわからない。

 

しかし、ある時期巣作りみたいにせっせとためこんでいた本はこの3年のあいだに大部分を売り払ってしまった。だから、ほんとうに手放したくないと思って本棚に残したいくつかの本をぼちぼちと読んで、感覚をとりもどそうとしている。

フロイトとか、岸田秀とか、そのあたり。小説の方では、サリンジャー上遠野浩平フィリップ・K・ディック……)

  

かつて本が読めなくなったのだって、何かきっかけがあったわけではなかった。

当時はつねに、「こんなことをして何の意味があるのか?」という声がじぶんの中にあった。正確には「こんなことをしてほんとうに逃げられると思っているのか?」だったかもしれない。じぶんの中からも外からもその声はつねに聞こえた。

たぶんそのうち、また「こんなことをして何の意味があるのか?」という声が大きくなってくるだろう。まあそのときになったら、またやめればいい。 

 

 

    ■

 「あの頃、何のために本を読んでいたのか」ということを、この3年のあいだ何度も考えることがあった。

距離をとって、冷静になってみると、答えは明確だった。

しかしそれを直視するのにはけっこう抵抗があった。

答えは、率直に言って、見栄をはるためだった。

 

――じぶんが、実質的に、なんというか「本の世界に出会った」のは、20歳そこそこの時だった。

ついでに、インターネットというものに出会ったのもまあ、同じくらいの時期だった。

ネットのそこかしこには若くしてやたらとあれこれくわしい大学生なんかが山ほどいたりして、じぶんの中に「出遅れた」あるいは「恥ずかしい」という感覚が生まれて、必死に知識を詰め込もうとしていた気がする。

喩えでなくて、本を読むことがほんとうに生活のぜんぶになっていた。

ポストモダンだの、言語学だの、批評理論だの……それまで全然知らなかったような知識がどんどん入ってきて、たしかに視野が広がるような感じはあった。でもそれ以上に、他のことを意識しすぎていた。

「この本まだ読んでないの?」と言われることをおそれた。解釈の間違いを指摘されることをおそれた。膨大な「読まなければならない」リストをつくって、ひとり疲弊した(こうやって書き出してみるとほんとうにわらってしまうような話だ、しかしなんというか頭のいい人々のあいだでのすげーめんどくさい応酬とかをよく目にしていたので、まったく戦々恐々だった)。

 

 その頃は(今も状況としては変わっていないけれど)、ネットでのぞき見るいくつかの界隈が世界のすべてで、そこでなんとかして居場所をつくるしかないという気持ちだった。価値を証明するしかなかった。仲間に入れてもらうしかなかった。それができなかったら田んぼの草刈りをすることが世界のすべてになってしまう。

お前はいったい誰と戦っているんだ、と言う他はない。

東京に住んでいていろいろなイベントに参加できる大学生くたばればいいのにと思いながら夜行バスではるばる上京して文学フリマに行ったりした。アニメ批評のオフ会に行って二言、三言しかしゃべれずに帰ったこともあった。

何かをやらなければいけないと思っていた。

もちろんその試みは頓挫した。気がつくと一文字たりとも活字を読むことができなくなっていた。だからたんたんと段ボール箱に本を詰めてブックオフに運んだ。

あとには何も残らなかった。青くさいtwitterのログだけは残った。

 

……というような過去の話は、あんまり実りがないし、何年も経っていてろくに覚えていないからやめよう。

自己分析なんて不毛なことで無意味だ、というのは精神分析の教えだ。とはいえこの重力からはなかなか逃げられるものじゃない。

 

    ■ 

 とにかく、ずっと、いろいろな焦燥感があったと思う。というか、今だって、そのときに比べて何かが解決したとかいうわけでは全然ない。 たんにどうでもよくなっただけだった。

 

    ■

それから、まあ、書くということについて。

 過去、読んだ本の感想とか、自分なりの何らかの意見とか、そういうものをほとんど書いたことはなかった。

 じぶんの中に、こういう恐怖があった。

「いきなり『完成品』としてでなければ、最初から『何者か』として姿を現さなければ、文章が書けない、他人とコミュニケーションがとれない、価値があるとはみなされない」という完璧主義的恐怖。

要約:馬鹿と思われたくなかった。

それはネットでいろいろな分野でとにかくすごい才能をうんざりするほど、目の当たりにしたというのが理由のひとつだと思う。

じぶんが歳相応の、何らかの蓄積を持っていないことに耐え切れず何百回も布団にもぐりこんで気のすむまで寝た。

しかし現在完璧でないからといって何もしなければ何の積み重ねも生まれることがない。

まったくもって見事な悪循環がそこにあった。そうこうしているうちにたぶん何もかも擦り切れてしまった。 時間なんてあっという間に過ぎる。 

 

人生の3分の1ほどの期間をつかってじぶんは、「何にもしなければずーっとそのまんま何にもないままだなあ」ということを学んだ。いや、今でもまだほんとうにはわかっていない。

わかってたら、たぶん夜中の3時にこんなもん書いてない。 

 

    ■ 

というわけでまとまった文章を書くことに慣れていないので、もう自分が何を書いているのか全然把握できなくなった(ちなみにこれだけ書くのに8時間はかかっている)。

 

なんとなく、成人してから以降の日々を総括、みたいな流れになってしまった(最初は、オリンピックについて何か書こうとしたはずなんだけど)。

じぶんに対して「こいつはいったい何を考えてるんだろう」という疑問がずっとあったので、その疑問にしたがって書いた。

このようなじぶんが突然何か価値を生み出すことができるようになるわけはないけど、症例としての価値、みたいなことを考えながら書いた。

 

今はもう、見栄をはらなければと意識する対象もないので、ふたたびなんとなく本を読み始めて、なんとなくリハビリ的に何か書いてみようと思えたことは、よかったと思う。

でもその気分もこの文章を書いたら終わりかもしれない。だってもうすでに「こんな支離滅裂なものを書き散らすことに何の意味があるんだ?」と考え始めている。

それはそれでいいんだけど。