羊のいない月曜日

もし一般論の国というものがあったら

息が切れる

 

・バイトを始めて2ヶ月が経つ。

 

・当面は環境の変化に慣れることにせいいっぱいで無駄な思考をせずにすんでいたが、少しずつ慣れてきたことで例の疑問にまたぞろ蝕まれつつある。

 

・「いつまで耐えればいいんだ?」

 

・単純作業。一日を耐え忍んでも、また明日、明後日、同じことの繰り返し。それが何年も? 賽の河原感。日ごとに身体が重さを増していて、近いうちに崩れてしまう予感がある。終わりが見えない苦行に耐えるだけのモチベーションって何だろう。

 

・生きるに値する何か。結局そこ。根本的なところで何かを見つけないとどうにもならない。恐怖に追い立てられて社会復帰してもすぐに折れるだけ。

 

・自分で金を稼いだ、という事実に対しても驚くほど何も感じない。振り込まれた給料をすべて引き出してきて机の上に並べてみたりした。何の感情もわいてこなかった。

 

・休日に何をすればいいのかわからない。というより「また、明日は仕事か」という考えがずしりと頭に居座り、動けない。とにかく、眠りたい。

 

・来週、精神科の予約をした。自分個人の健康保険証ができたことで、この10年近い泥沼生活の中で初めて精神科に行くという選択肢が可能になったので、もうここに賭けるしかない。自分としてはこの状態は価値観の問題であって精神疾患ではないとしか思えないがもうここに賭けるしかない。

1月17日


・何もしなかった。


・家の中でトイレにこもってじっと時間がすぎるのを待っていると、その「逃げきれないのはわかっているがそうせずにはいられない切迫感」みたいなものを、子供のころにも学校のトイレとかで味わっていたようなそんなひりひりした感じが脳裏にふっと浮かび上がってきて、そうか、ずっとそうだったなあ、ということを薄ぼんやりと。

 

 

・たぶん、フィクションを消費することで何かを回復しようとするのは根本的に間違っているのだが、部屋の中でひとりでできる他の選択肢が思いつかない。

 

 

高村薫マークスの山』を読む。

 

・すこし前に『レディ・ジョーカー』も読んだが、こういう組織内での権力闘争だとか裏社会がどうこうだとかの、今までの人生でまるで興味をもたなかったタイプの物語って、自分とはまったく無関係なことだから適切に距離を取れるせいなのか、意外とよく読める。

 

・警察の事件捜査の流れとかいったいどうやったらこんな綿密に書けるんだろう。

 

・ものすごく硬い文章なのだけどそれで犯人の完全にとっちらかってる内面も上手く書きあらわせていてすごい。

 

年が明けて

カフカ『城』を読む。


年末からぼちぼちと読んでいる。

今5分の1ほど。なかなか読み進まない。


前に読んだ『審判』は集中して読めたけど。

どうも入り込めない。何が違うんだろうと考える。

でもこうやってたまに手に取ってすこし読んだりまた中断したりという読み方が合ってる本だという気もする。



死ぬ前にカフカの日記が読みたいけど入手が難しそうだ、ということを日々twitterカフカbotを見て思う。



どんな創作物にふれても無意識に「勉強」というスタンスを取ってしまうようになって久しいけど(何を学ぶわけでもないにもかかわらず)、

考えてみればカフカ作品にたいしては全然そんな感じにならないのがいい。



今年は、何かを読んだら、感想ですらない雑文を残すことにしたい。

本読んで下手すると「面白かった/つまらなかった」という一言感想すらうかばないということがあって何かが終わってしまっている感じがする。

何でもいいから言葉を発したい。


客観視の何がおもしろいのか

 

せっかくこういう場をもうけたので虚無だろうが何だろうがせめて週1くらいで何かを書いていきたい。

 

    ■ 

ひさしぶりにtwitterを見てみたら、どうやら漫画家の方々のあいだでイマジナリーラインについて話題になっていたようだった。

 

イマジナリーライン。すこし聞いたことはあるというレベルなのでよくわからん。

で、その話を見ていてちょっと連想したことがある。

前からお絵描き関係のスレで、デッサンとかパースとかについて定期的に持ち上がっている印象のある話題だ。

 

「漫画を描くにあたりデッサン(orパース)の知識は必須か否か」みたいな答えの出ないやりとり。これ。

たぶん、今回の話とだいたいおんなじパターンだと思う。

 

まぁ門外漢なのでこういったことについてはべつになんか言えるわけでもない。ただ不毛だとは思うけど。

たとえば今回のイマジナリーラインの話題の中では、「その概念、今初めて聞いた」というプロの漫画家の方が何人もいた、という事実から推して知るべし。

 

それで、まあ……こういったことに関連して、ちょっと思ったことがあるので、それを書く。 

熱意と技術のこと。

 

    ■

創作すること、というか、こうしてブログを書くこともふくめ何か表現することにおいて、「客観的な視点で見直すことが重要」という話をかならずと言っていいほど聞く。

 まあそれはもっともだと思う。

 

他人が読みやすいように心がける。

書いてからしばらく時間を置いて、熱が冷めてから見直す。 

あとはなんかいろいろ、形式的なこと、技術的なこと……。

 

ところで、人がなにかを表現しようとするその原動力には、熱意のようなものがあると思う。

衝動、とか、勢い、とか。

そういうものがあるんじゃないかと推定します。

 

で……じぶんがつねづね感じていたのは、「頭を冷やして、客観的な視点で見直す」ことというのは、その表現のエネルギーとなる「熱意」とはどうも相反するんじゃないかということ。

ふつうに考えてそのふたつは相性が悪いように見えるということ。

 

ひとりよがりにならないように……頭を冷やして……ということを意識していたら、表現することのモチベーションって、いったいどうやってたもつんだろう?

ということがじぶんにはふしぎに思えてならない。

まあ鉄は熱いうちに打てとかそういう話かもしれない。 

 

    ■

ちなみにこの文章がまさにその「どうやってモチベーションをたもつのか問題」につきあたっていて、書き始めてからここまで1週間ほどかかっている。しかもろくに推敲もできていない。

 

    ■

結局のところこんなふうに思うのは、それはたんにじぶんが無能だからかもしれない。

つまり表現することをこころざすのであれば、時間をかけた客観的な見直しにも耐えうる、熱意の低下を跳ねのける、秀逸な着想なり何なりが中心に据えられているのでなければならないということかもしれない。

 

 そんな感じ。

 

問診票みたいなもの

 

3年ぶりに活字が読めるようになった。

理由はよくわからない。

 

しかし、ある時期巣作りみたいにせっせとためこんでいた本はこの3年のあいだに大部分を売り払ってしまった。だから、ほんとうに手放したくないと思って本棚に残したいくつかの本をぼちぼちと読んで、感覚をとりもどそうとしている。

フロイトとか、岸田秀とか、そのあたり。小説の方では、サリンジャー上遠野浩平フィリップ・K・ディック……)

  

かつて本が読めなくなったのだって、何かきっかけがあったわけではなかった。

当時はつねに、「こんなことをして何の意味があるのか?」という声がじぶんの中にあった。正確には「こんなことをしてほんとうに逃げられると思っているのか?」だったかもしれない。じぶんの中からも外からもその声はつねに聞こえた。

たぶんそのうち、また「こんなことをして何の意味があるのか?」という声が大きくなってくるだろう。まあそのときになったら、またやめればいい。 

 

 

    ■

 「あの頃、何のために本を読んでいたのか」ということを、この3年のあいだ何度も考えることがあった。

距離をとって、冷静になってみると、答えは明確だった。

しかしそれを直視するのにはけっこう抵抗があった。

答えは、率直に言って、見栄をはるためだった。

 

――じぶんが、実質的に、なんというか「本の世界に出会った」のは、20歳そこそこの時だった。

ついでに、インターネットというものに出会ったのもまあ、同じくらいの時期だった。

ネットのそこかしこには若くしてやたらとあれこれくわしい大学生なんかが山ほどいたりして、じぶんの中に「出遅れた」あるいは「恥ずかしい」という感覚が生まれて、必死に知識を詰め込もうとしていた気がする。

喩えでなくて、本を読むことがほんとうに生活のぜんぶになっていた。

ポストモダンだの、言語学だの、批評理論だの……それまで全然知らなかったような知識がどんどん入ってきて、たしかに視野が広がるような感じはあった。でもそれ以上に、他のことを意識しすぎていた。

「この本まだ読んでないの?」と言われることをおそれた。解釈の間違いを指摘されることをおそれた。膨大な「読まなければならない」リストをつくって、ひとり疲弊した(こうやって書き出してみるとほんとうにわらってしまうような話だ、しかしなんというか頭のいい人々のあいだでのすげーめんどくさい応酬とかをよく目にしていたので、まったく戦々恐々だった)。

 

 その頃は(今も状況としては変わっていないけれど)、ネットでのぞき見るいくつかの界隈が世界のすべてで、そこでなんとかして居場所をつくるしかないという気持ちだった。価値を証明するしかなかった。仲間に入れてもらうしかなかった。それができなかったら田んぼの草刈りをすることが世界のすべてになってしまう。

お前はいったい誰と戦っているんだ、と言う他はない。

東京に住んでいていろいろなイベントに参加できる大学生くたばればいいのにと思いながら夜行バスではるばる上京して文学フリマに行ったりした。アニメ批評のオフ会に行って二言、三言しかしゃべれずに帰ったこともあった。

何かをやらなければいけないと思っていた。

もちろんその試みは頓挫した。気がつくと一文字たりとも活字を読むことができなくなっていた。だからたんたんと段ボール箱に本を詰めてブックオフに運んだ。

あとには何も残らなかった。青くさいtwitterのログだけは残った。

 

……というような過去の話は、あんまり実りがないし、何年も経っていてろくに覚えていないからやめよう。

自己分析なんて不毛なことで無意味だ、というのは精神分析の教えだ。とはいえこの重力からはなかなか逃げられるものじゃない。

 

    ■ 

 とにかく、ずっと、いろいろな焦燥感があったと思う。というか、今だって、そのときに比べて何かが解決したとかいうわけでは全然ない。 たんにどうでもよくなっただけだった。

 

    ■

それから、まあ、書くということについて。

 過去、読んだ本の感想とか、自分なりの何らかの意見とか、そういうものをほとんど書いたことはなかった。

 じぶんの中に、こういう恐怖があった。

「いきなり『完成品』としてでなければ、最初から『何者か』として姿を現さなければ、文章が書けない、他人とコミュニケーションがとれない、価値があるとはみなされない」という完璧主義的恐怖。

要約:馬鹿と思われたくなかった。

それはネットでいろいろな分野でとにかくすごい才能をうんざりするほど、目の当たりにしたというのが理由のひとつだと思う。

じぶんが歳相応の、何らかの蓄積を持っていないことに耐え切れず何百回も布団にもぐりこんで気のすむまで寝た。

しかし現在完璧でないからといって何もしなければ何の積み重ねも生まれることがない。

まったくもって見事な悪循環がそこにあった。そうこうしているうちにたぶん何もかも擦り切れてしまった。 時間なんてあっという間に過ぎる。 

 

人生の3分の1ほどの期間をつかってじぶんは、「何にもしなければずーっとそのまんま何にもないままだなあ」ということを学んだ。いや、今でもまだほんとうにはわかっていない。

わかってたら、たぶん夜中の3時にこんなもん書いてない。 

 

    ■ 

というわけでまとまった文章を書くことに慣れていないので、もう自分が何を書いているのか全然把握できなくなった(ちなみにこれだけ書くのに8時間はかかっている)。

 

なんとなく、成人してから以降の日々を総括、みたいな流れになってしまった(最初は、オリンピックについて何か書こうとしたはずなんだけど)。

じぶんに対して「こいつはいったい何を考えてるんだろう」という疑問がずっとあったので、その疑問にしたがって書いた。

このようなじぶんが突然何か価値を生み出すことができるようになるわけはないけど、症例としての価値、みたいなことを考えながら書いた。

 

今はもう、見栄をはらなければと意識する対象もないので、ふたたびなんとなく本を読み始めて、なんとなくリハビリ的に何か書いてみようと思えたことは、よかったと思う。

でもその気分もこの文章を書いたら終わりかもしれない。だってもうすでに「こんな支離滅裂なものを書き散らすことに何の意味があるんだ?」と考え始めている。

それはそれでいいんだけど。